「たとへば、こんな怪談ばなし =傘の中=」  「星野さん、お先に〜」  「星野、それじゃぁな!」  「星野ーっ!ご苦労さまでーす!」  同僚や先輩,後輩達がニヤケた顔で星野にイヤミ半分の挨拶をして次 々とフロアを退出して行く…  その一言一言がチクチクと星野の胸に刺さっていた。  「それじゃ、星野あとよろしく!今日中に例の物、仕上げとけよ!」 といちばん最後に退出していく彼の上司にとどめの一言を浴びせられ、 意気消沈してパソコンに向かう星野であった…  暫く黙々と仕事を続けていたが、余りの静けさに心寂しくなって、フ ロアの外にある自動販売機で珈琲を買い一人窓辺に佇んだ。  外を見ると、雨が降っていた…  朝、出社する前に見たテレビの天気予報では、「関東地方南部の降水 確率は、10%です。傘はいらないでしょう」と言っていた。  星野はそれを鵜呑みにして今日は傘を持ってこなかった。  (誰だー、本日の降水確率10%などと言った奴は〜〜!!)  星野の手に持った紙コップがわなわなと震えた…しかし、星野はすぐ に気を取り直した、  (ザマアミロ、この雨じゃ屋形船での宴会も興ざめだろうよ)  と、くやし紛れに鼻でフフンと笑った。  本日星野の会社は、会社上げての屋形船で大宴会の日であった。  しかし、星野は客先に出す書類とソフトの納期が明日であるため、宴 会には参加出来ずに居残って残業する羽目になってしまった。  誰も居ない会社ほど寂しい物はない…珈琲を飲みながら、星野は昼間 同僚と話していた最近の噂話を思い出していた…  「なあ星野、お前知ってるか?」  プリンターの出力待ちで暇になった同僚が星野に話しかける。  「なにが?」  星野はキーボードを打つ手を休める事無く、同僚にそっけない返事を する。  「出るんだってよ!製管(製造技術管理部の略)の資料室に若い女の 幽霊がよ!!」  ニヤケながら言う同僚の言葉に、ピタリと星野の手が止まる。  「幽霊?へっ、おどかしっこなしだぜ!」  星野は同僚の方を向いた。同僚は、ニヤニヤした顔で、  「いや、本当なんだよ、あそこ昼間でも薄暗くてよ、製管の課長やパー トのおばちゃん連中が見たんだったてよ」  と、声をひそめて言った。  「まぁさかぁ…」  と顔では笑っていたが、内心ビクビクしていた…  突然、星野は頭を激しく横に降って思い出した話しを振り払う仕草を した。寂しいときには決まって、嫌な事や恐い事を思い出すのが星野の 悪い癖であった。  「さーて!お仕事、お仕事!!」  星野は、自分に言い聞かせるような大声を出すと、再びパソコンに向 かった。  そして、さっきの怪談話しをすっかり忘れて、明日納期の仕事に集中 した… * * * * * * * * *  「ふーっ!…やっと、終わった…」  ようやく、仕事が終わった頃には時刻は11時を回っていた…  「さて、終電が無くなる前にとっとと退散退散」 と一人言を言いながら後かたづけを始める。  外を見ると、まだ雨は降っていた。雨足は一層強くなっているようだ。  「まいったなぁ…傘持ってきてねぇよ!」 と頭を掻きながらロッカーを開けてみると、ロッカーの中に番傘が…そ れを見た途端、星野はふとある出来事を思いだした。  それは、2カ月前の事。  この番傘は、新盆の晩にやはり残業しての帰り道、偶然会った少女の 持ち物であった。  その少女は実は星野の祖母の妹に当たる霊で、彼女は盆帰りの途中道 に迷い、偶然にも血縁に当たる星野に出逢った。番傘はその時雨が降っ ていたため、借りたのであった。  その後、一度星野の祖母の霊が出てきたとき返すチャンスがあったが、 その時また雨が降りだし、またもや借りたままになっていた物であった。  そのまま会社に持ってきたものの、返す宛と言おうか返す方法が判ら ずそのままロッカーに放り込んだままになっていた。そうして出張やら 外出等の忙しさに紛れている内、この傘の事をすっかり忘れていた。  星野はその番傘に手を延ばしたが、一旦躊躇した。しかし、意を決す るとその番傘を手に持った。…それは、たとへ肉親の霊とは言え、再び 恐い想いをしたくない心境と、もう一度好きだった祖母に会いたい…う まくいくば、この番傘を返せるかも知れないと言う心の葛藤であった。  フロアの最終退場のチェックをすませ、守衛用の重い出口の扉を開け、 番傘をさす。  星野の勤める会社は横浜港にある埋め立て地にある。横浜と言えば聞 こえは良いが、横浜駅までは道のりとして約5キロ,直線距離にして約 2キロの場所である。一番近い駅で、近道してもゆうに1キロはある。  星野は恐さ半分、期待半分でかつて祖母達の霊に出逢った寂しい近道 を歩いた。  会社のあるビルを出て運河沿いの道をとぼとぼ歩いていると、後ろか ら小走りに近づいてくる足音がした。  (げげっ!まっ、まさか…)  星野は身をすくめ、平静を装って歩き続けた。しかし、その足は次第 にガクガクと震えていった。  足音はどんどん近づいてくる…  そして、足音が星野の隣まできたとき、足音の主はいきなり傘の中に 入ってきたばかりか、星野の腕に絡みついてきた。ギョッとして見る星 野の目の前には見覚えの無い女性の顔があった。  「第1技術部の星野さんでしょ?私、製造技術管理部の高瀬と言いま す」  女は、こう言うとニコリと微笑んだ。  見知らぬ人物でも、同じ会社の人間と名乗られて、ホッとする星野で あった。  「製管?製管に君みたいな子がいたっけ?」  星野の記憶にある製造技術管理部の人々の顔の中に、若い女性の記憶 はなかった…星野の記憶にあるのは、製造技術管理部は星野の会社でも 平均年齢が社内でも飛び抜けて高いという記憶しかなく、女性もパート タイムのおばさんが2,3人居るだけだと記憶していたからである。  それに星野の業務はシステムエンジニアであるため、製造技術管理部 には縁遠い存在であり、滅多に近づく事がない場所であった。  「あら、いますよ!ほら覚えてませんか?入社時の新人研修の時、星 野さんの前で堂々と居眠りしちゃって、星野さんに叩かれた…」  「あっ…!」  星野は思いだした。  「き、君かぁ?」  星野は素っ頓狂な声をあげた。そして、改めて高瀬の顔を見た、距離 があれば、指でも指しかねないと言う状態であった。  「思い出しました?」  高瀬は少し首を傾げ、眼鏡越しにいたずらっぽい目で星野の顔を覗き 込んだ。  「嗚呼、思い出したよ。あのときの図々しい子かぁ!」  星野が高瀬の顔に面と向かって言った。  「まあ、図々しいだなんて…」  高瀬はそう言うとそっぽを向いた。少し膨れたみたいだった。しかし、 さっき星野の腕に絡み着いてきた態度と言い…図々しいと星野は思った。  「しかし、今の時間までなにやってたの?今日は会社ぐるみの宴会の 筈では?」  「えっ?ええ…でも星野さんこそなにやってたのですか?」  高瀬は少し慌てているようだが、星野はそんな彼女の素振りに気付か ず  「ん?俺?俺は明日納期の仕事があって居残り。」 と、星野はとぼけるように言った。  「あら、じゃ私とおんなじですね。私も居残り組ですから…」  笑って答える高瀬の言葉に、星野は怪訝そうな顔をして  「でも、俺が帰るときには会社には誰も居なかった筈だが?」 と、首を捻った。  「えっ、あっ、私一旦帰ったのですが、忘れ物しちゃって…それで、 外に出たら急に雨足が強くなっちゃって、下のロビーでうろうろしてい たら、偶然星野さんを見かけたので、慌てて追っかけてきたのです」 と、高瀬はまくしたてるように言った。しかし、その時高瀬は一瞬答に 詰まったように星野には見えた。  「ふーん。まっ、いいかぁ…で、駅まで?」  星野は一瞬、なにか心に引っかかる物があったが、高瀬の言葉に惑わ され妙に納得してしまった。  「星野さんはどちらまで?」  「俺は駅から電車」  「じゃ、駅まで一緒ですね。私は駅からバスですから…」  高瀬はクスクス笑いながら答える。  星野は内心喜んだ。こんな寂しい通りを一人で歩くよりは、遥かに楽 しいからである。  「ふーん、高瀬君は何処に住んでいるのかな?」  「はい、私は生麦です」 と、高瀬はにっこり笑って答えた。  1つ傘の下、2人は歩きだした。  「しかし、ここは寂しいところですね?たとへ途中で行き倒れていて も、発見されたときには手遅れという事に…」  「…ん、そっそうだな…たしかに…」  星野は、変な事を言う娘だなと思った。  この時、星野は昼間の噂話を思い出したが、まさかこんな所で当の噂 の現場の人間…しかも、女性にこんな寂しい所で事の真相を聞いて恐が られたり気分を悪くされたりしたら可愛そうなので、この場では自分か らこの話しを出す事を控える事にした。  「なんで、こんな辺鄙なところに越してきたんのでしょうね?」  そんな、星野の複雑な心境を察する事無く高瀬は話しを続けた。  「さあなぁ…家賃が安いのだか、なんだか知らないが、上の人はもう 少し、あそこに通勤する社員の苦労を考えて欲しいよなぁ…上の人はい いよなぁ…車で送り迎えされて…」  星野は遠くを見るような目をした。  「そうですよねぇ?」  星野の意見に高瀬も、もっともだという顔をしてうなづく。  暫く、何て事はない世間話を続けていたが、  「私、本当は寂しかったんです」  高瀬はうつ向いて低い声で言った。  「えっ…?」  驚いて聞き返す星野の返事に、  「いっ、いえ、今日みたいに残業しての帰り道って、恐いでしょ?私 みたいな美人の乙女なんか…キャッ!」  と、高瀬は急に取り繕うみたいな事を言った。  (なにが、乙女だ…本当に図々しい奴っちゃなぁ…)  星野はなにか首筋が痒くなる感覚を覚えた。  「まあ…確かに高瀬君は、ま、そのなんだ…不細工ではないな」  この言葉は本当である。確かに高瀬は美人でも無ければ不細工でもな い…しかし、これはあくまで星野の感覚。  高瀬は、星野の言葉にムッとしたが言葉を続けた。  「私、よく星野さんに逢うんですよ、でも…声を掛けてもいつも星野 さんには届かない…」  「???」  急にしおらしくなった高瀬の言葉を聞いて、星野は戸惑った。  「でも、こうして星野さんと話しをする事が出来て嬉しいです。この 傘のおかげですね…しかし、背広に番傘なんて変な趣味!!」  と、途中までしおらしかったが、『背広で番傘なんて変な趣味!!』 と言ったところで高瀬はおもいっきり吹きだしてしまった。  星野は途中まで真剣に聞いていたが、高瀬が吹きだした言葉にムッと した。  「ああ…この番傘ね…」  と、言って星野は慌てて口を噤んだ。まさか、「祖母の妹の霊からの 借り物だ」とは言えなかった。  たとへ、言っても笑われるか、恐がられるか、結果は星野当人にとっ て不愉快な結果になる事は判りきっていた。  「番傘がどうかしましたか?」  と、高瀬は星野の言葉尻を捕らえて言った。  「ん…。実はね、出張の土産なんだ…会社に置きっぱなしになってた んだ」  「へえー」  とっさの星野の言い訳に高瀬は納得したみたいだった。  我ながら旨い意分けを言った物だと、星野のは自己満足した。  「実は忘れ物と言ったのは嘘なんです」  駅近くになって、急に高瀬が言い出した。  「嘘?」  急に言われたので、星野は素っ頓狂な声を出した。  「はい、実は落とし物をしたので探していたのです」  「落とし物?…この雨の中で??」  星野は、驚きの表情を示した。  「はい…」  高瀬は星野の顔に目もくれず、真っ直ぐ前を見つめていた。  「いったい何を落としたの?大切な物かい?」  優しく語りかける星野に  「…ブローチなんです」  と、高瀬は急に声のトーンを高くした。  「ブローチ?」  「はい…」  高瀬はうつ向いて言った。  「大事な物?」  星野はうつ向いている高瀬の方を向いて言った。  高瀬は、コクンとうなづくと、  「ええ…学校の倶楽部の後輩から卒業記念に貰った物で…安物ですが、 私にとっては大事な宝物です」  高瀬はうつ向いたままであったが、その横顔はどこか寂しそうであっ た。  「いつ無くしたのに気がついたのかな?」  星野は静かに問いかける。  「はい、家に帰る途中で…多分…さっきの運河沿いの道だと思います」  「なぜそこだと?」  「はい、以前そこで転びまして…そのとき、ブローチが無くなったの に気付きました」  「以前?」  星野は驚いた、高瀬は以前から無くしたブローチを探していたのかと。  「それで、見つかったの?」  「…いいえ」  高瀬は、小声で言った。  「そうか…」  星野は空を見上げた。  駅で高瀬と別れた星野は、慌ててホームに入っていた電車に飛び乗っ た。高瀬との分かれ間際、駅の照明に照らされた高瀬の顔に血の気が無 いのと寂しそうな表情が、ふと気になった。  (かなり、大切にしていたんだなぁ…明日、定時で開けたら探すの手 伝ってあげるか…)  星野は一人合点をして、空いている電車の座席に座った。 * * * * * * * * *  「いててて…」  星野は翌日、会社へ行く途中道端で転んだ。  運河沿いの道であったが何もない場所なのに、急に足がもつれて転ん だのであった…  「俺も、歳かなぁ?」  と、苦笑いをしながら背広に着いた土埃を払っている最中、ふと脇を 見ると、運河沿いに張り巡らしてあるフェンスのの向こうに生えている 草むらの中に光る物を見つけた。  手を延ばせば届きそうな距離である。無視しようと思えば出来たのだ が、どうもそれが気になって仕方がない。  (汚れついでだ)と思ってフェンスの下に這いつくばって、その光る 物を拾い上げた。  手に取って見ると光る物はブローチであった。  ブローチを良くみると、裏側に「高瀬先輩へ後輩一同より」と象眼細 工の文字が彫ってあった。  (ははぁ…これが昨日の晩、高瀬君が無くしたと言っていた大切な物 か) と星野は思った。  星野はブローチをポケットに入れると、会社に向かって歩きだした。  星野の脳裏には、ブローチを手に取って喜んでいる高瀬の笑顔が浮か んでいた。  昼近くになって、星野はブローチを紙に包んで作業着のポケットに入 れ、滅多に行かない製造技術管理部のフロアに行った。  製造技術管理部のフロアを覗くと、高瀬の姿が見えなかった…そこで、 たまたまその場にいた同期入社の友人を捕まえて高瀬の行方を聞くと。  「お前、知らないのかい?高瀬君は去年亡くなったのを…」  「えっ…」  星野は血の気が失せて行くのを感じた…  話しを聞くと高瀬は、昨年帰宅途中、急性心不全で路上で倒れ込んだ まま息を引き取ったとの事であった…  目撃者の話しを総合すると、高瀬はその日体調が悪いにも関わらず、 どうしてもやらなければいけない仕事があったとかで、残業をしたそう である。そして無理をして夜遅くまで仕事をして、退社したとの事。  会社から駅への近道の寂しい通りで、彼女の遺体が発見されたのは、 夜の11時頃であったと言う…  そこは、奇しくも本日星野が転んだ場所であり、昨晩星野が高瀬に出 逢った場所であった…  星野は気分が悪くなり、その日早々と早退した。  翌日、星野は午前半休を電話で申請し、高瀬の家に行った。ブローチ がどうしても気になって仕方がなく、一刻も早く高瀬の両親に届けて上 げようと思ったからである。  高瀬の家に行くと、高瀬の両親は不思議と星野の事をよく知っていた。 聞くと生前高瀬自身がよく星野の話しをしていたそうだ。  しかし、高瀬の両親は最初星野の来訪を疑問に思っていて、星野が彼 女との件を話したが、最初はからかいに来たのかと疑いの目を向けてい た。  星野が懇々と誠心誠意をもって話していく内、とても信じられないと 言った表情になっていった。  しかし、星野がポケットからブローチを出して高瀬の両親に見せると、 2人共驚いて、これは娘の持ち物だとはっきり認め、星野の話しを不思 議に思いながらも信じるようになった。  高瀬のブローチを仏壇に置き、仏壇にある位牌に線香を手向け、静か に手を合わせる。  (無くした物、見つかったよ) と、星野は心で高瀬に話しかけた。  帰り際にふと振り返って、仏壇に飾ってある高瀬の遺影を見た。その 時、星野の目には高瀬の遺影が微かに微笑んだ様に見えた。  その後、星野の会社では製管の資料室に若い女性の幽霊を見たという 話しは2度と聞く事はなかった…  一方、番傘の方はあれ以来、星野の家の仏壇の横に立てかけてある。 藤次郎正秀